インドカリーとインド独立の志士 ビハリ・ボース
昨日久しぶりに新宿中村屋本店で「インドカリー」を食した。丁度チャンドラ・ボースについて書いたので、今日はもう一人のボース、ラス・ビハリ・ボースについて述べたい。これは昨年1月に某サイトで書いたものに手を加えたものである。
●インド独立の志士 ラス・ビハリ・ボース
新宿通りに面して、パン・お菓子で有名な「新宿中村屋」の本店がある。1階は和洋菓子・デリカの販売店だが、2階から4階がレストランになっている。意外な事にここはインド独立運動を語る上で欠かせない場所である。
皆さんが行く機会があれば、本店2階のレストランの「インドカリー」というメニューと、メニューディスプレイ内に飾られている古写真の数々をご覧になって頂きたいのだが、中村屋はインド独立運動の志士ラス・ビハリ・ボースゆかりの場所なのである。
ラス・ビハリ・ボースは1886年生まれ。ベンガル州出身で大学生時代からインド独立運動を志し、森林調査局に就職後は表向きイギリス人官吏に忠実で、仕事に精勤して昇進を重ねた。
しかしボースは逆にその地位を利用して革命派の活動を拡大し、ついには1912年デリーに於いて英人総督の爆殺未遂事件を自ら実行したのである。
追われる身となったボースは1915年(大正4年)、インドの詩人タゴール(1913年、アジア人初のノーベル文学賞受賞)の来日のどさくさに紛れて日本に亡命した。
東京では伝手があって同じく亡命中の孫文を訪ね、孫文が世話になっていた玄洋社の頭山満らを紹介されるなど様々な人脈を築いてゆく。
ところが当時は日英同盟が締結されており、日本政府はイギリスの圧力によりボースに国外退去命令を下したのである。インドに戻れば即処刑であったから、これは事実上の死刑判決に等しかった。
●「インドカリー」の誕生
警察の監視下に置かれ進退窮まったボースは、頭山の斡旋で新宿中村屋を経営する相馬家に匿われる事となったが、相馬家の主人・相馬愛蔵は傑物で、よくボースを匿い続けた。
相馬家に潜伏中、ボースは新宿中村屋に本場インドのカリーを伝授。それを日本人向けにアレンジしたのが、昭和2年発売以来、現在に至っているメニュー「純インド式カリーライス」である。
大正7年(1918年)第一次世界大戦の終結に伴いイギリスの追及が終わったので、相馬家の長女と結婚していたボースは中村屋の敷地内に居を定め、大正12年(1923年)には日本に帰化。
日本を拠点にインド独立運動を本格的に推進し始めた。同時に中村屋の役員として、喫茶部を開設してインドカリーの販売に携わることになる。
大正13年(1924年)詩人タゴールは来日した際、頭山ら玄洋社社員と会談しているが、これはタゴールの著作をボースが翻訳した縁である。また玄洋社は中近東のムスリム有志とも交流を持っているが、その陰にはボースの働きもあったと思われる。
●大東亜戦争とビハリ・ボース
日露戦争の勝利を契機として、欧米列強に植民地化されていたアジア各地では独立運動が広がりだした。しかし多くの独立運動家たちは列強の弾圧の対象となり、次々に日本に亡命してきたのである。日本はさながらアジア各地の独立闘争の一大拠点の観を呈していた。
昭和16年12月8日、日本が対米英蘭戦争に突入すると、日本各地のインド人志士たちは「インド独立連盟」を東京で旗揚げした。それに先立つ盧溝橋事件からシナ事変の勃発に際して、ボースは背後でイギリスがシナを使嗾して日支の勢力を弱めようとしていると見て、インドの独立こそが日支間の紛争を解決する道であると説いて回ったのである。
インドルートで蒋介石支援物資がシナに入っている状況をボースは看破していたのかも知れないが、このルートは後に「援蒋ルート」と呼ばれる事となる。
対米戦1ヶ月前の昭和16年11月15日、大本営政府連絡会議に於いて決定した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」(※1)は大東亜戦争の基本戦略構想とも云うべきものである。
その冒頭の“大方針”は、
「速カニ極東ニ於ケル米英蘭ノ根拠ヲ覆シテ自存自衛ヲ確立スルトトモニ更ニ積極的措置ニ依リ蒋政権ノ屈服ヲ促進シ独伊ト提携シテ先ズ英ノ屈服ヲ図リ米ノ継戦意思ヲ喪失セシムルニ努ム」となっている。
蒋介石政権を屈服させるのと、独伊との提携によるイギリスの屈服が、優先順位としては対米決戦よりも先であった訳で、ボースの意見が反映されたかどうかは判らないが(ボースが参謀本部に招聘されたのは昭和17年1月)、この基本戦略遂行のためにインド洋方面の「西亜作戦」と、重慶に進攻して蒋介石軍の息の根を止める「五号作戦」が陸軍部内で研究されている。
ところが太平洋方面に於いて海軍が暴走し対米戦に深入りしてしまい、戦争の基本的構想が無視された状況になってしまった。陸軍はそれでも諦めずに東インド進攻の「21号作戦」を計画していたが、太平洋方面の戦局悪化で無期延期となってしまった。
●チャンドラ・ボースとインパール作戦
しかしこの構想は意外な成り行きで復活する。ドイツで反英活動を展開していたチャンドラ・ボースが来日、ラス・ビハリ・ボースは彼と会談し、「インド独立連盟」代表就任とインド国民軍の指揮をチャンドラ・ボースに託した。
チャンドラ・ボースの熱意に動かされた東条首相と陸軍首脳は「う号作戦」すなわちインパール作戦を計画、実施したのである。
その後の戦局の悲惨な推移はご存知のとおりである。昭和17年前半の段階で陸海軍によるインド方面の共同作戦が実施されておれば、名将ロンメル将軍率いるドイツ・アフリカ軍団による北アフリカ、中東攻撃と連携して、第二次世界大戦はまったく違った局面を迎えていたかも知れないが、昭和19年に至っては時すでに遅かった。
インパール作戦に参戦したインド国民軍6千名のうち、生還できたのは2千4百名であった。
この作戦そのものを時機遅しとみて反対したラス・ビハリ・ボースも、昭和20年1月21日、ついにインド独立をみること能わず病死した。享年58歳。
友人であった陽明学者の安岡正篤は、「ボース・ラス・ビハリ氏を偲ぶ」(※2)という一文を捧げている。
ボースの悲願・インドの独立は、その死後2年後のことであった。
※念のため申し上げますが、冒頭に書いた新宿中村屋と小生の間に特別の利害関係はございません。ただ、本店2階レストランの「インドカリー」¥1,470
(参考資料)
(※1)参謀本部編、「杉山メモ(下)」(原書房、平成17年7月)
(※2)原 嘉陽 編著、「インド独立の志士と日本人―アジア精神再興の潮流―」(展転社、平成15年7月)
(※3)読売新聞西部本社編、『大アジア 燃ゆるまなざし 頭山満と玄洋社』
(※4)井川聡、小林寛共著、『人ありて 頭山満と玄洋社』(海鳥社 平成15年6月)
(※5)館報「玄洋」(玄洋社記念館・
(※6)中島岳志著、『中村屋のボース』(白水社 平成17年4月)
(※7)社報
終わりに、参考資料※6で挙げた中島岳志氏はビハリ・ボースの研究家だが、一連の各雑誌への寄稿から判断すれば、彼の思想は狂信左翼寄りであり、下手をすると日印関係を破壊する方向に読者を引っ張ってゆく傾向があるので、要注意人物であると考える。


by yukana10
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